2020年8月26日水曜日

老子

 夏目漱石が護国寺で運慶を見たとか(「夢十夜」の「第六夜」), 芥川龍之介が市電から寒山, 拾得を見とか(「寒山拾得」)いう話があるが, 寺田寅彦が「電車で老子に会った話」は趣きが異なる.

つまり寺田先生は「インゼル・ビュフェライ叢書」にアレクサンダー・ウラールが訳した『老子』を見付けて購入し, 電車の中で読み始めたら面白くなり, 数回の車中で読了したという. 日本語の解説より分りやすかったらしい.

私は老子は近寄り難く避けていたが, 昨年末, 中国深圳で少し話をしたら, 謝礼として為書きのある書を貰った. それに「大道至簡」と書いてあり, 調べたところ老子の言葉らしいことが判明. それではというので老子を読むことにした.

早速読んだのは

池田知久 「老子 全訳注」 講談社学術文庫

だが,

保立道久 「現代語訳」 老子 ちくま新書

もインターネットに

保立道久の研究雑記
『老子』、現代語訳・原文・読み下し

があったので, それも参考にする.


老子は第1章から第37章までの道経と, 第38章から第81章までの徳経の, 計81章で構成される. 今回は夫々の最初の章の最初の文を例にする.

池田本では, 第1章の最初は

道可道也、非恆道也。名可名也、非恆名也。

道の道とす可きは、恒の道に非ざるなり。名の名とす可きは、恒の名に非ざるなり。

道というものがあれこれ唱えられている中で、道として定立することのできるわたしの道も、恒常不変の真の道であるとは言えない。道についての名(理論)があれこれ説かれている中で、道の名(理論)として表現することのできるわたしの名(理論)も、恒常不変の真の名(理論)であるとは言えない。

一方, 保立本は

道可道也、非恒道也。名可名也、非恒名也。

道の道(ゆ)くべきは、恒なる道に非(あら)ざるなり。名の名づくべきは、恒なる名に非ざるなり。

普通に行く道と、ここでいう「恒なる道」はまったく違うものだ。普通に名づけることができる名と、ここでいう「恒なる名」もまったく違う。

どちらも, 特に後者は短いだけあって, 禅問答のようだ.

次に第38章は, 池田本で

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以徳无。

上徳は徳ならず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わず、是を以て徳无し。

そもそも最上の徳は、世間的な徳とは正反対である。だからこそ、真の徳がある。下等な徳は、世間的な徳を捨てることが出来ない。だからこそ、真の徳がないのだ。

保立本は

上徳、不徳是以有徳。下徳、不失徳是以無徳。

上徳は、徳ならずして是(ここ)を以て徳あり。下徳は、徳を失わずして是を以て徳なし。

「道」から発した最上の「徳(いきおい)」(上徳)は徳(はたらき)がないようにみえて大きな徳(いきおい)があり、そうでない「下徳」は徳(はたらき)を失っていないようだが実は徳(いきおい)がなくなっている。

同じような感じだ. もともと道とか徳とかが抽象的だから, 説明が難しくて当然であろう.

寺田先生がドイツ語訳で分ったような気分になったというので, 英訳を探すと

The Tao Te Ching by Lao Tzu
馮家福 Jane English

があった. 表題のTao Te ChingはTao=道, Te=徳, Ching=経のことだ.

道の説明は次のようだ.

One

The Tao that can be told is not the eternal Tao.
The name that can be named is not the eternal name.

また徳の方は

Thirty-eight

A truly good man is not aware of his goodness,
And is therefore good.
A foolish man tries to be good,
And is therefore not good.

上徳と下徳がgood manとfoolish manになっているのが凄い. なるほど日本語の説明より具体的である.

インターネットでさらに探すと, 寺田先生が読んだAlexander Ularの訳の一部があった.

Die Bahn und der rechte Weg des Lao-Tse
Alexander Ular

DER ERSTE SPRUCH

Die Bahn der Bahnen ist nicht die Alltagsbahn;
Der Name der Namen ist nicht der Alltagsname.

38章は掲載されていなかった.

ドイツ語を和訳するのは簡単だ. 複数をたちと訳せば

道たちの道は毎日の道ではない
名たちの名は毎日の名ではない

でもこれが何を言おうとしているかは, やはり分らない.

結果的には池田本の訳が一番しっくりする. つまりドイツ語が分り易いというのも章によるのではないかということである. 沢山の訳を比較すれば, 段々と理解しやすくなるという当然の結論に達する.


ところで論語だが, 大学の先生方がよくいうのが

学而不思則罔 思而不学則殆

学びて思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

これは罔や殆が理解を妨げている. 私の持っている論語の英訳を見ると

The Analects of Confucius

The Master said: `Learing without thinking is useless. Thinking without learning is dangerous.'

のように, uselessとdangerousになっている.

つまり, 数学の公式を学んでも, それを十分に理解しなければ, 使えない. また思い付いた名案も, その基礎が分っていないと, 迷案になるというようなことだ.

この場合は英訳が分り易い.




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